 |
|
 |
 |
 |
 |
 |
 |
「ひとりじゃ生みだせない幸せ」 |
大阪府立柴島高等学校 二年 藤岡 拓 |
僕の学校では、知的障害を持つ生徒のことを「アミティエ」と呼んでいる。彼らと一緒に遊んだり、文化祭や他校との交流会に参加したりする「アミティエライフを送る会」というクラブがあり、聴覚障害を持つ僕はここに所属して二年目になる。
初めはこの人たちとうまく接していけるだろうかとすごく不安だった。でも、彼らは相手によって態度をかえたりしない。障害のせいでそれができないと言ってしまえばそれまでなのだが、僕は彼らのそんなところに魅力を感じるし、安心させられる。
すんなり受け入れてもらえたものの、彼らと会話をすることは難しい。僕は彼らの障害に、つまり行動や動作のスピードに合わせることができるけれど、彼らは僕の障害に合わせることができない。難聴である僕を受け入れてくれた形にはなっているけれど、僕が必要とする身ぶりなどを彼らに期待することはできない。だから、彼らの言葉を聴き取れないとき、返す言葉が曖昧になってしまい、そのたびに僕はもどかしい思いをする。
それだけに、お互いが通じ合ったときはとてもうれしい。
「あな。」「え、何て?もっかい言って?」「あな。」「何?……指さしてみて。どうしたん?」「……。」「靴下?…あ!ほんまや。穴あいてるナ。これ縫ってもらわんとあかんなあ。」「うん、これ、穴あいた。ぬってもらう。」「うん、家帰ったら縫ってもらい。」
こんな何でもないやりとりでも、アミティエの子たちと話せたときには心がじんとする。僕が彼らともっと関わりたいと感じるのは、そういう瞬間がうれしいからだ。
障害と障害がぶつかると、更なる障害が生まれるだけではない。「自分にだって健康なところはある」と前向きにとらえることができ、「少し手伝ってあげる」とお互いがたすけ合える。むしろシアワセのほうがたくさん生まれてくるのだ。 |
 |
聴覚障害のある人と知的障害のある人の触れ合いという題材の新鮮さで、審査員特別賞に選ばれました。
「あな。」「え、何て?もっかい言って?」……という会話がうまく取り入れられており、なるほどこうしたスローテンポで会話が進んでいくのかと、今まで気付かなかった発見がありました。
障害を乗り越えていく喜びが感じられ、文章に大きな欠点は無いのですが、エッセイとして大切な要素である作者独自の「主張」が感じられないことが、少し物足りなく感じられます。 |
|
|
 |
|
 |